こんにちは、なかなか痩せることができない木須です。
これまで“近代建築の三大巨匠”の2人と世界遺産について書きましたが、ラストは「フランク・ロイド・ライト」。
実は、ライトは400を超える作品の内10の建築物を世界遺産に登録申請していますが、まだ登録には至っていません。
60年にわたる創作活動において建築物から家具に至るまで「有機的建築」を追求し、日本とも深く関わりがあるのがフランク・ロイド・ライトです。しかもライトの生涯は波乱万丈。なぜライトの建築が世界遺産登録されないのか、といったことも含めてまずどういった人物なのか、からお話していきます。
- フランク・ロイド・ライトとは
- ライトの世界遺産登録申請建築
- まとめ
フランク・ロイド・ライトとは
フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)1867 – 1959
アメリカ生まれ、アメリカで活躍した20世紀を代表する近代建築家の巨匠の1人。アメリカ ウィスコンシン州で、牧師の父と母の間に長男として生まれます。
ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後は、シカゴへ移り住み、叔父の紹介で建築事務所にて働き始めましたが、1年ほどで辞職し、アドラー=サリヴァン事務所へ移ります。
ここで才能を見込まれ、当事務所の1888年以降の住宅設計のほとんどを任されるようになります。
しかし、勤めて7年になろうとした1893年、仕事以外で住宅設計をしていることがバレて独立。独立してから17年間に、計画案も含め200件近い建築設計を行い、『プレイリースタイル(草原様式)』の作品で知られるようになり、1906年 このスタイルの代表作『ロビー邸』が建築されます。
『ロビー邸』は、当時シカゴ周辺の住宅で多くあった屋根裏や地下室などを失くすことで、建物の高さを抑え、“水平線”を強調し部屋同士を完全に区切ることなく、1つの空間として緩やかに繋がる初期代表作です。こうして、アメリカ郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、評価を得たライトでしたが、この後、長い低迷期を迎えることとなります。
そのきっかけになったのが、1904年に完成したチェニー邸の依頼主の妻との不倫関係。
当時、ライトは既に結婚しており、6人の子供を授かっていましたが、1909年 42歳で事務所を閉じ、ニューヨーク→ヨーロッパへ駆け落ちを強行してしまいます。
1911年にアメリカに帰国するまでの2年間は設計を行うことはありませんでした。
帰国後、ライトに待っていたのは不倫によって地に落ちた名声と、設計依頼の激減という危機的状況。
それでもライトは、愛人との新居を構えるべく、母から与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンに自邸である『タリアセン』を設計建築します。その後、少しずつ設計の依頼が増えてきたライトをさらなる事件が襲いました。
『タリアセン』の使用人が、建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、弟子達の計7人を斧で惨殺したのです。
当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れましたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらに再びスキャンダルの渦中の人となってしまいました。
そのような中、日本から設計の依頼がきます。1922年 『自由学園校舎』、1923年完成の『帝国ホテル新館』などなど。また浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていると考えられています。
しかし、ライトは『帝国ホテル新館』の完成を見ることなく離日することになります。
ここまで数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトでしたが、1936年 日本でもカビキラーで有名なジョンソン社の本社『ジョンソンワックス本社』、
同年 「プレイリースタイル」の発展形「ユーソニアン・ハウス」の代表『ジェイコブス邸』、1937年 世界一有名な邸宅と名高い『カウフマン邸(落水荘)』と、次々と代表作を設計し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになります。
また、建築だけでなく、家具やテキスタイル・照明・カトラリー等までデザインしています。中でも、ライトの自邸であった『タリアセン』のためにデザインしたのがきっかけとなった「タリアセン シリーズ」が有名。
戦後も精力的に創作活動を続け、1959年 アリゾナ州フェニックスにて最期を迎えるまでの間、『グッゲンハイム美術館』や『ユニテリアン教会』といった後世に残る作品を生み出し続けました。
自邸にて、最愛の人を亡くした際に日本からの依頼があったライト。その心中はどのようなものだったのでしょうか・・・
まず、1919年から着工した『帝国ホテル新館』。
1917年 帝国ホテルの総支配人だった林愛作に請われて、来日します。着工すると、ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで自ら管理したといいます。
例えば、帝国ホテルに使われた「スクラッチタイル」や「テラコッタ」などは当時の日本では殆ど作られておらず、新たに「帝国ホテル煉瓦製作所」(旧INAX社の前身)を設立したほどでした。
しかし、こうした完璧主義は大幅な予算オーバーと工期の遅れ、それによる経営陣との衝突を生みました。結果、ライトは帝国ホテルの完成を見ずに日本を離れることとなります。
その後のホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ、1923年に竣工。
現在、愛知県犬山市にある明治村に、この帝国ホテルの中央玄関部だけが移築されています。
また、帝国ホテルの建築を最後まで行った助手の遠藤新の紹介により、1921年 東京 池袋にある自由学園校舎(現・自由学園明日館)を設計します。自由学園の創立者夫妻の目指す新しい教育理念に共感したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計しています。
ライトの世界遺産登録申請建築
コルビュジェと同じく、今年7月の世界遺産登録に向けてライトの建築群もユネスコに申請されていました。
しかし、結果は「登録延期」。
世界遺産登録の勧告は、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」の4段階に分かれます。「登録」以外は、もう少しで登録に手が届く「情報照会」、かなりきびしいと思われる「登録延期」、どう転んでも登録はありえない「不登録」となります。
勧告文書には、全作品の再定義が必要、全体的な管理計画が不十分、遺産の周辺に設けられる緩衝地帯の設定をやり直し、といったことが至らない理由として挙げられています。
ただし、三度目の正直のコルビュジェのように、ライトの世界遺産登録も今後ないとは言いきれません。
まとめ
過去に落水荘に行きそびれたので、これは必ずリベンジしようと思っています。3回に渡ってお送りした【世界遺産から見る“近代建築の三大巨匠”】。3名が3名とも、現在の建築に多大な影響をもたらしていることをおわかりになったと思います。
いつか本当に三大巨匠の建築観賞旅行に旅立ってみたいものです。それでは、また機会があれば有名建築家のお話を書きたいと思います。
木須 拓己
分譲マンション管理会社で専有部(お部屋内)の様々なサービス開発・企画の立案、リフォーム&リノベーション・室内クリーニング、インテリア商品販売等、お客様の快適な生活をサポートする部署の担当。分譲マンションの管理会社を15年務めた実体験及び情報をわかりやすく伝えるために日々仕事に励んでいます。仕事での心情:ニーズを形にする
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